賤機焼(しずはたやき)とは
賎機焼について
駿河古窯「賤機焼」の起りは、江戸時代初期、創始者は太田七郎右衛門という人です。
徳川家康が駿府に在城の頃、家康から賤機山麓(現在の浅間神社のある山麓あたり)に二十五石の朱印地と賤機焼の称号をもらい、徳川家の御用窯として賤機焼の歴史を刻みはじめ、数百年にわたり徳川家の御用窯として保護をうけ、代々駿府城や久能山東照宮、浅間神社の御用窯として栄えたといいます。
賤機焼は、文政の終わり頃に急に衰退しました。これは安倍川が大氾濫し、そのとき窯場も流れ去ったためといわれています。一時途絶えた賤機焼は、明治に入り、太田萬治郎氏の手で再興されましたが、かつてほどの盛況は蘇えらせることはできず、明治中期、静岡県は郷土産業の一つとして賤機焼の再興を考え、八番町に窯を築いていた青島庄助氏を招いたのです。
青島氏は、明治45年に逝去するまで賤機焼を守り続け、二代目五郎氏は、常滑の技術を導入し、従来の賤機焼に創意を凝らすなど、新しい焼物を試み、三代目秋果氏の手によって、地方色豊かな焼物に生まれ変わりました。
歴代の作品紹介
賎機焼の特徴
江戸時代の賤機焼の焼き方は、交跡(こうし)焼といって、温度が約900度位で釉薬と土との馴染みが悪く、脆かったため、製品として残るものは少ないのですが、江戸時代から現在まで続くものに「鬼福」という意匠があります。
これにはエピソードがあり、家康が三方原合戦において、武田信玄の率いる甲州勢に屈し、浜松城へ逃げ帰り、武田の大軍に城を囲まれ、家臣と別れの盃を交わした時、最後の一策を考えた家臣が、城内にあかあかとかがり火をたかせ、城門を押し開き太鼓を打ち鳴らし、「鬼は外、福は内」と叫ぶと、武田勢がこれを敵の策略と勘ちがいして囲みをとき、徳川方に思わぬ勝利を招きました。
太田七郎右衛門が、家康の無事と勝利を祝って、外形は鬼瓦の形に、内には福面を描いた七五三の三つ組の盃を献上し、家康を大いに喜ばせ、賤機焼の称号を与えられたといわれます。
現在の賤機焼では、再建した2代目から伝わる南蛮手といわれる焼き方や釉裏紅や辰砂といって銅を還元で焼き、紅色を出す焼き方が特徴です。
以上、「静岡県郷土工芸品振興会」より